10 月 28 日、愛川町立半原小学校の敷地内にある「旧半原小学校校舎」を初訪問しました(杢代・柳田)。
旧半原小学校校舎(愛川町半原)
神奈川県内最古の貴重な現存木造校舎であり、また半原宮大工集団ゆかりの近代建築でもあります。
予約すれば内部見学も可能とのことで、今回は愛川町郷土資料館の岩田様にご案内いただきました。
外壁-ドイツ下見
まず最初の見どころが外壁。
近代洋風木造建築に多く見られる下見板張です。
ポピュラーな「イギリス下見」ではなく「ドイツ下見」を採用しているのがシブい!
イギリス下見は横板をずらしつつ上下に重ねるため、壁面はヨロイ状の段々に。しかしドイツ下見は横板を加工して上下に継ぎ合わせるので、シュッとした平らな壁面になります。
加工に手間のかかるドイツ下見ですが、複雑な木継ぎ技法を使いこなす半原宮大工には朝飯前だ
ったかもしれません。
実はこの外壁は、今年(2023 年)塗り直されたばかり。鮮やかなピンク色が、建物の外観イメージを明るくしています。
小学校のシャンデリア
玄関を入るとすぐ、ゴージャスな照明が目に飛び込んできます。
説明板には「昭和 6 年、半原小学校講堂竣工のときに設置した十数個のシャンデリアのうちの一つ」とあります。
優美なシャンデリア
むかしの学校建築では、こうした豪華な照明器具がしばしば採用されました。
「子どもたちに最高の学び舎を!」というかつての教育熱の高さとともに、わが町の小学校への
シビックプライドも感じられます。懐かしの「木の教室」
教室の扉を開けた瞬間!
まるで小学生時代にタイムスリップしたような感覚。木の机と椅子が並ぶ懐かしい木造教室がそこにありました。
この教室は、2021 年に愛川町が「懐かしの学び舎」として整備したもの。この建物のいちばんの
見どころです。
再現された木造校舎の教室
天井も壁も床も木。小学校時代、床にワックスがけしたのを思い出しました。机も椅子も、黒板
も教卓も、オルガンもすべて木製。
むかしの教室がこれほどまでに木の香りに満ちていたとは!あらためて驚かされます。
明治以来、日本の学校教育は急速に近代化=西洋化しました。しかし、実は子どもたちが日々学ん
でいたのは日本建築の伝統につらなる”木の空間”だった…というわけです。
愛川町内の小学 6 年生は、年に一度この木の教室でむかしの暮らしを学ぶ授業を受けるそうです。よそではなかなか真似できない羨ましい授業ですね。
机とイスの物語
教卓は同校伝来のものです。しかし子どもたちの木の机と椅子は教室再現当時すでに失われていました。「どうやって集めたものかけっこう悩んだ」(岩田さん)とのこと。
木の椅子。重みもなつかしい
幸い町の呼びかけに応えて、長野県蓼科町、和歌山県田辺市、福岡県大川市、山梨県市川三郷町
の 4 つの自治体が寄贈協力してくれました。
偶然とはいえ、いずれも愛川町と同じ木と森と山に縁の深い土地ばかり。木の学び舎がつむいだ新たな地域間の縁。ステキです。
木の机と椅子が結んだ縁
大正のガラス窓
日本の近代木造校舎建築の大きな特徴は、採光を重視して「窓が多く明るい」こと(註 1)。校庭側はもちろん、廊下側もガラス窓です。
よく見ると、ガラスの表面がかすかに歪んでいるのがわかります。いわゆる「大正ガラス」です。
大正ガラスの窓
透明で平坦なガラスの製造は難しく、国産板ガラスの生産は大正時代にようやく本格化しました。
ところがガラス製造技術が進歩した現在、歪みのある大正ガラスの製造技術は失われ、いまでは再現不可能な”幻のガラス”に。
旧半原小学校の窓ガラスは、技術史的にも興味深い貴重なものなのです。
換気口の校章
教室の天井の隅には「換気口」が設けられています。下から見上げると、内部に花模様が。
実はこれ、半原小学校の「校章」をかたどったデザインなのです。
教室天井の換気口
半原小学校の校章
人目につきにくい細部の意匠にまでこだわる大工の粋。精緻な木工技術に長けた半原宮大工の面目躍如です。
「県内最古」の木造小学校校舎
神奈川県内には、他にも戦前の木造小学校校舎がいくつか現存します。
横浜市の横浜共立学園本校舎(昭和 6 年築)、鎌倉市立御成小学校旧講堂(昭和 9 年築)などが有名ですが、いずれも昭和の建築です。
旧半原小学校校舎が建てられたのは 1926(大正 15)年。県内唯一の大正時代の小学校校舎であ
り、すなわち「県内最古の現存木造小学校校舎」なのです。
昭和 20-50 年頃までの半原小学校図(説明展示より)
かつて半原小学校の敷地には複数の木造校舎や講堂がありましたが、昭和 53(1978)年の鉄筋コンクリート校舎建設に先立ち撤去されることになりました。
その際、既存校舎の一部を「曳き屋」して現在位置まで移動し、残したものがこの「旧半原小学校校舎」です。
半原宮大工集団と近代建築
旧半原小学校校舎は、地元の「半原宮大工集団」の手で建てられました。
半原宮大工集団は、かつて県内に複数存在した「地域宮大工集団」の一つ。地元愛川町内はもち
ろん、県下の多くの神社仏閣建築を手掛けたことで知られます。
半原宮大工集団が建てた勝楽寺山門(愛川町)
明治の文明開化とともに、わが国では近代建築への需要が急増。しかし当時の日本には、洋式建築術を知る技術者はほとんどいませんでした。
そんな中で活躍したのが半原宮大工集団です。持ち前の高度な宮大工技術を活かし、役場や工場、銀行などの近代建築を次々と手掛け、地域の近代化に大きな役割を果たしました。
半原宮大工集団は近代建築も手掛けた(図版出所:註 2)
こうした初期の近代木造建築も、やがて時代とともに役割を終え、現代建築に建て替えられたり
撤去されて失われていきました。
半原宮大工集団が手がけた数多くの近代建築の中で最後まで残ったのが、この旧半原小学校校舎。地域の歴史が深く刻まれた貴重な一棟なのです。
廊下と防災建築
教室の外へ出ると、ただ一本の廊下が教室を結んでいます。さらに廊下の脇には並行して土間が走るというたいへん珍しい造りです。
教室を結ぶ廊下と土間
そして廊下の中央部には大きな扉が。
このフシギな構造には、当時の人々の防災への強い思いが込められていました。
校庭に直結する扉
大正 12(1923)年の関東大地震の際、震源地に近い神奈川県では多くの建物が倒壊しました。
旧校舎が建てられたのは 3 年後の大正 15(1926)年。生々しい震災の経験を踏まえ、子どもたちが教室からすぐ校庭に出られるよう工夫されたのがこの構造なのです。
奇しくも今年(2023 年)は関東大震災から 100 年。子どもたちをいかに災害から守るかは、いまも変わらぬ課題です。
「糸のまち・半原」と半原宮大工集団
他の教室は、郷土愛川の歴史を語るさまざまなモノの展示・保管の場として活用されています。
とりわけ目を惹くのが、生糸の撚糸にかかわる繊細な機械の数々。近代の愛川町半原は、生糸の撚糸産業で栄えたまちでした。
半原の近代を支えた撚糸機械の数々
原材料の生糸は、撚糸を経て輸出商品になります。この中間工程の撚糸で栄えたのが半原です。
半原は、生糸の産地と横浜港を結ぶ街道筋の好立地。町内を流れる中津川の渓流は、生糸の加工に適度な湿気をふくむ動力源(水力)です。
しかも半原には、この恵まれた立地と資源を活かす「技術力」がありました。
半原宮大工集団です。
近代的な撚糸工場の建設はもちろん、水車を動力とするさまざまな撚糸機械も、半原宮大工集団
の流れを汲む人々によって開発されました。
撚糸機械のプレートに刻まれた「半原」の文字
かつて半原宮大工が得意とした精緻な木工技術は、明治日本の撚糸産業発展の礎を築き、「糸の
まち・半原」に豊かな富をもたらしたのです。
「百年建築」と地域の未来
旧半原小学校校舎はまもなく百歳。
長い歴史に耐えた木造校舎は、かつての半原宮大工集団の技術力の高さを物語っています。
ひるがえって現在。
小学校自体が統廃合の時代を迎える一方、日本の木造建築の魅力と価値に再び光が当たり始めて
います。
半原小学校の現校舎と旧校舎
実際に訪れた旧半原小学校校舎は、想像を超えた魅力と物語に満ちた建築でした。
百年を超えたその先に、旧半原小学校校舎はどんな未来を辿るのでしょうか。私たち現代の半原宮大工集団も、真剣に考えていきたいと思います。
ご丁寧なガイダンスをいただきました郷土資料館の岩田さまに、厚くお礼申し上げます。
【用語】
下見板張(したみいたばり)
平たく長い外装材の板を横張りする外壁施工法。
下見板張の技法は伝統和風建築にもあるが、近代以降に登場した洋風建築の住宅や学校が多用されたため、モダンな洋風木造建築のイメージが強い。
西洋建築の下見板張技法には、大きく分けて表面に段差ができる「イギリス下見(南京下見)」と、
表面を平坦に仕上げる「ドイツ下見」がある。
【註】
- NHK 美の壺「木造校舎」
https://www.nhk.or.jp/tsubo/program/file133.html
⇒木造校舎の見どころや日本建築との関係など。
- 鈴木光雄「半原宮大工矢内匠家匠歴譜」神奈川新聞社、2009)
⇒半原宮大工の業績を知るための基本図書。
【参考動画】
愛川町チャンネル「タイムマシンで懐かしの学び舎へ GO!Long trip」https://youtu.be/sAzmEMiBE_0?si=3ggu1GlbPQxfn-bI
⇒再現教室を紹介。校歌作曲はあの古関裕而!